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越後上越柿崎区 浄土真宗本願寺派 扇谷山浄福寺です。
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> 大杉さんから贈られた「川越の御名号」の銅像
◇◆ 大杉さんから贈られた「川越の御名号」の銅像 ◆◇
昨年の10月30日に、当寺院の先代達のご法事を勤めました。
その折に、大杉さんから寄贈された銅像を皆様方にお披露目し、除幕式を行いました。
この銅像は、浄福寺にとってとても大切な宝物となり、大きな歴史の遺物となりました。
大杉さんに見てほしかったのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。
けれども、きっとお浄土で見てくれていると思います。
大杉さんが亡くなる二ヶ月ほど前に「浄福寺に銅像を遺したい」との申し出があり、急遽昭和49年に浄福寺の梵鐘を
作成した、高岡にある「老子製作所」の元井秀治さん(梵鐘を作成していただいた方の息子さん)に連絡をして、作成を
依頼しました。
この銅像は、本堂に掛けています浄福寺の縁起の絵伝の中でも非常に大事な一場面を表現しています。
当時、先祖善順坊の俗性は、鎮守府将軍源頼朝公の末、信濃源氏井上越後守忠長といい、鎌倉扇谷に住居しておりました。
ただ、鎌倉争乱の時に没落し、しばらく信州に移住するが、所縁によって柿崎に小家を稼ぎとして、古の武名を隠して
扇屋と名乗っておりました。
そこへ、流罪となっておられた親鸞聖人が、五年のご逗留を終え、流罪が解けたという赦免を受け取るための途中に柿崎に
お寄りになりました。
そこで深い因縁によって、聖人から阿弥陀様のみ教えを受け、お弟子となりました。
その夜、聖人は「九字の御名号(南無不可思議光如来)」を忠長に与えました。
翌日、共に米山川を渡ったところへ忠長の妻が追いかけてきて、悲しんでいる姿を見かねた聖人は
「汝が志
なんじ こころざし
誠に
まこと
神妙
しんみょう
なると
雖も
いえど
舘へ
た ち
妻諸共に
つまともども
尊重して
そんちょう
仏恩
ぶうとん
喜ぶべし
よろこ
我が
わ
供奉致す
くぶい た
よりは、
宿に帰り
や ど
同行一人
どうぎょういちにん
なりとも
勧め、
すす
我が
わ
苦労を
くろう
救わば
す く
甚だの
はなは
悦びなり。」
よ ろこび
と申されました。
しかし、忠長は「是非、お供させて下さい。」と懇願しますが、聖人と一緒におられた蓮位坊が、
「師命に
しめい
背ける
そ む
者、
もの
不敬の
ふ きょう
至り、
いたり
仰せに
お お
任
まか
すべし。」
と強くお叱りになります。
この度の銅像は、その場面を表現しているのです。
私も何回か高岡に出向き、聖人や忠長、その妻の姿やお顔をどうするかを検討しました。
聖人のお顔は、お若いころを想像しながら、白い襟巻き(恵心尼様が贈られたもの)をトレードマークにして作成しました。
そして忠長を諭しながらもどこか笑みを浮かべているお顔をお願いしました。
また追いかけてきた妻の顔ですが、元井さんが「ご住職の好きな女性の顔にすれば・・・・」とおっしゃったので、すぐに実家の
母を思い浮かべましたが、よくよく考えたら、母は浄福寺と血脈がありません。そこで、今の坊守の若いころの顔にしました。
(本人もいろいろお願いしていたようです・・・・)。
銅像を乗せている石は、主に群馬県で採取される三波石。きれいな緑かかった石で、とてもきれいな模様が入っています。
また聖人達と妻との間の米山川を演出するために、透明な白と緑の石を撒きました。
石に関しては「光の石」の山本輝さんに依頼しました。
いずれ別の石のところに、この場面の由来を掘りたいと思っています。
有縁の皆さんに関心を持って語り継いでいただければ幸いですし、寄贈して下さった大杉さんもきっと喜んでくれると思います。
浄土真宗本願寺派 扇谷山浄福寺
28代住職 井上陽雄
▽▽ 銅像横に川越の御名号の碑文ができました ▽▽
▽▽ 石碑裏面には寄進された大杉さんの肉筆が掘りまれています ▽▽