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越後上越柿崎区 浄土真宗本願寺派 扇谷山浄福寺です。
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明治天皇北陸御巡幸の行在所
浄福寺に明治天皇が御宿泊
明治天皇は即位以来、明治五年(1872)に大阪及びに中国・四国、九年に東奥、十年に京都・大和、十一年に北陸・東海、 十三年に山梨・三重、十四年には奥羽・北海道など、全国各位へ巡幸を続け、皇威宣揚、民心慰撫に努め、明治新政の政策遂行 の徹底をはかった。
明治十一年八月二十日、天皇は東京を出発され、浦和・桶川・熊谷・新町・前橋・松井田・追分。上田・長野を経て 、九月十日、関川行在所にご宿泊、初めて本県へその足跡を記されることとなった。
この巡幸に供奉する者は、太政官、右大 臣 岩倉具視、参議大隈重信、井上馨など「明治の元勲」といわれた重臣を始め、宮内庁、内務省、大蔵省、工部省、陸軍省、警視局の臣下、六百三十九 人、 乗馬百十六頭である。
本県へ入って九月十一日、御昼餞新井、御宿泊高田、九月十二日御昼餞・御宿泊柿崎、さらに柏崎、出雲崎、寺泊、弥彦を経て 新潟に至る経路が、すでに七月の段階で発表された。
「沿道地方官心得」により新潟県並びに沿道の各町村は恐懼して、その奉迎準備に没頭していた。 かきざきでは、中町小出清七方に第七大区小一区事務所として奉迎準備に当たった。
協議の末、浄土真宗本願寺派扇谷山浄福寺を行在所に、また善導寺 を非常立退所と 決定した。浄福寺は庫裏を改装し、玉座、御寝殿、御次の間をすべて庫裏の二階にしつらえた。
その縁側の外に五間(約九メートル)三間(約三.六 メートル)の板を 張って土を盛り、樹木、石灯篭、飛石、築山などを配した「釣り庭」、つまり臨時の階上庭園をも造営したという。
いよいよ九月十二日、午前八時高田行在所を御出発、直江津・御小休み、潟町・御昼餞、午後一時潟町御出発、柿崎へ向かわれた。
行列は、前衛に新潟県警察官、先導の新潟県令永山盛輝が騎馬で、また近衛騎兵数十騎がこれに続いた。さらに数多の顕官を前後に従え、天皇は 沿道に 恐懼奉迎する 数千の老若男女の中を、二頭立御馬車に乗られ、午後三時十分、行在所の浄福寺へ到着された。
供奉の顕臣、武官、近衛兵、警官、県官らの一行は浄福 寺のほか、五ヵ寺と数十件の町屋に分宿した。
翌十三日は午前七時三十分御出発、途中柏崎、出雲崎、弥彦と御宿泊を重ねられ、九月十六日新潟着御、三日間御滞在され た。 帰路は、九月二十四日に再び浄福寺に御宿泊、直江津から北陸道へその巡幸の歩みを進められた。
柿崎行在所での御膳水は諏訪町小松善次郎方の井水が使われた。
なお、この浄福寺の報恩講を特に「お引上げ会」といい、この日は門前から町内に延々と露店が立ち並び、大変な賑わいを見せる。
この「お引上げ」の 意味は、 本来、報恩講は初冬の十二月十六日から催されるべきところ、積雪期であるため現行の六月に繰り上げて行うので、このように呼ばれるという。
現在では柿崎町商工会がこの報恩講に合わせて「お引上げ商工まつり」を催している。
新潟日報事業社発行 にいがた歴史散歩より
■ 柿崎川を渡る御座船を描いた当時の絵図
■ 御巡幸の足跡を描いた当時の絵図
■ 境内にある明治天皇御駐蹕所
■ 行幸跡の石碑