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越後上越柿崎区 浄土真宗本願寺派 扇谷山浄福寺です。
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◇◆ 浄福寺の縁起 ◆◇
浄福寺縁起
当山の開基善順の俗名は井上忠長と称し、かつては鎌倉の扇ヶ屋
に居住していた武将でした。忠長は、柿崎で武名をかくして、出身
地の名をとって扇谷(扇屋)と名乗っておりました。
承元元年(1207)念仏禁止の難にまきこまれた親鸞聖人は、
建暦元年(1211)柿崎で忠長と出会いました。そして聖人のご
教化により忠長の心に仏さまの信心が目覚めたのでした。
聖人も深くこれをお喜びになり「南無不可思議光如来」の九字の
御名号を忠長にお与えになり、法名を釈善順と授け、お弟子とされ
ました。
聖人は「柿崎にしぶしぶ宿をとりけるに主の心熟しなりけり」と
詠まれ、これに対して善順も「かど通る法師に宿をかしければ書き
くれたりや九字の名号」とご返歌申し上げました。
翌朝、聖人は、御名号を背負って共に柿崎川を渡った善順に「お
ん身は私の供をするにおよばぬ。これから柿崎に帰って夫婦もろと
もに弥陀の本願を弘通し、北国同行の先達となってこそ仏恩報謝の
道である」とお諭しになられ、国府へと向かわれました。
善順は、涙ながらに聖人のお姿を拝してお別れ申し上げ、再び柿
崎に立ち戻りました。このことから後にこの御名号を「川越えの御
名号」と申すようになりました。
以来善順は御名号を安置し奉り、ただ一すじに聖人の御教えの先
達となり、今日にいたったのであります。
扇谷山 浄福寺
○聖人御流罪
承元元年(1207)2月、親鸞聖人は念仏禁止の難にまきこまれ、
還俗させられて藤井善信という氏名をあたえられたうえ、越後の
国府(新潟県上越市)へ流罪に処せられました。
時に聖人35歳。豪雪の越後で日本海の荒波の音を耳に、故郷の
京の都をはなれ、とくに年老いた師の法然上人と東西に遠くわかれ
て、まことにわびしい生活がはじまりました。
それでも聖人は「もしわれ配所におもむかずば何によってか辺都
の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」の固い決意をもって、
如来真実の念仏の一道を胸から胸へと伝えられたのでありました。
やがて建暦元年(1211)11月17日、師法然上人の流罪がとかれ
ると同時に、親鸞聖人も流罪の罪が許されました。
その頃、聖人はちょうど越後蒲原郡金津の庄の鳥屋野(新潟市郊外)
の草庵におられたと伝えられております。
国府へ流罪赦免の勅使が来られると聞かれた聖人は、鳥屋野の里を
立ち出られ、一路国府へとむかわれました。
雪降りつもる米山峠の難所を超え、激しい寒風の汀をわたり、大変
なご苦労をされてようやく柿崎にお着きの頃は、日も晩陰におよんで
おりました。
○鎌倉兵乱の落人
当山の開基善順の俗姓は井上忠長と称し、かつては鎌倉の扇ケ山に
居住していた武将でありましたが、鎌倉兵乱の際に没落してしばらく
信州に移り、後また柿崎に小屋を結び、武名をかくし、出身地の名を
とって扇谷(扇屋)と名のっておりました。
深い因縁によって聖人は扇谷の柴戸にたどり着かれまして、一夜の
宿を請われたのでした。
ところが折りあやく主人は留守で女房はお宿をかすことをせず、聖人
やむなくこの家の軒下に笈を枕に雪をしとねとして、お休みになられ
ました。
夜更けて主人が帰って来て軒先の様子をながめ、大そうもったいな
く思いまして、女房をなだめましたので、しぶしぶ女房もお宿を申し
あげることに同意いたしました。
○渋々宿
降りしきる雪のその夜、渋々ながらお宿を申しましたが、聖人のご
懇篤なるご教化をいただいた武士忠長の心には、初めて「仏さまから
賜った信心」が目覚めたのでした。
和を愛好しながらも執着の煩悩から刃を合わせて殺しあわねばなら
なかった恐ろしいわが身の業縁を見つけたとき、如来の大悲本願を仰
がずにはおられなかったのでしょう。
聖人も深くこれをお喜びになり「南無不可思議光如来」の九字の御
名号を忠長にお与えになりました。
御名号は、その後本願寺第三世覚如上人を始め、代々の御門主からた
びたび御覧をいただいております。
明治11年(1878)9月、明治天皇新潟に御巡幸のとき、9月12日
と24日の両日、扇谷山浄福寺は御行在所となり、聖人の御名号と御詠
歌を天覧あそばされました。
(明治33年には仏光寺法主、大正2年には鏡如上人、大正13年に
久邇宮両殿下、大正15年に北白川大妃殿下御名号台覧、その他別掲
「浄福寺小史」参照)
なお、聖人の御詠歌と忠長の返歌は、天正5年(1577)の兵火で焼失
してしまいましたので、天明7年(1787)4月、当寺19代住職教秀
は京都に上り、本願寺の法如上人より聖人の御詠歌を、文如上人より
忠長の返歌をご染筆いただき、現在これを伝えております。
扇谷絵伝
聖人御染筆の「川越九字御名号」
本尊阿弥陀如来
○本尊阿弥陀如来
立像木仏、高さ二尺八寸。春日の作。
当時八代順照に血脈の後継がなかったところ、縁あって
会津若松浄光寺の二男順了を養子に迎えることになり、この
時春日の作の木仏一体が譲られました。そこで慶長十一年
(一六〇六)十月十七日本願寺第十二代准如上人から、その
木仏を本尊としてよろしいとの許可を得て、それまで安置
していた御名号は秘蔵し、代わりに本尊としたものであります。
その後、宝永四年(一七〇七)と明治三十年(一八九七)
の柿崎大火で本堂類焼の際にも、この本尊と御名号は守られ
ました。
春日は中国に渡って仏像の彫刻を身に着け帰朝、自分の子
との対面を機縁に父子二人で合作したのがこの本尊だという
物語をもっています。
ふくよかな顔、首から肩あたりの丸みのある線、右手を斜め
にあげ左手を肱からさげた角度、まとった薄着のひだの彫り
の深さなど、平安朝の特色をよく表しております
親鸞聖人木像
祖師(親鸞聖人)八十八歳の御木像自ら彫刻の時、
渋々宿に残したき思し召しあり。 今、扇谷の子孫伝来の霊宝なり
御風(右、中)、黙雷(左)の掛け軸
右-柿崎浄福寺璽天与免る
い璽志へをおもへ者由免可うつつ可も
今古の寺璽鶯遠起久 御風
中-ほ可ら可に鳴くは鶯柿崎の
みち可能春の安志多静け久 御風
左-柿崎にしぶしぶ宿をかりけるにあるじのこころ
熟柿とぞなると詠じたまひし御歌を
よみはべりて生死即涅槃煩悩即菩提のこころを 黙雷
秋来ればもとのしぶ気もなかりけり
しぶこそ柿のあまきあじなれ 黙雷
◇◆ 明治天皇柿崎行在所阯 ◆◇
明治11年(1878)9月、明治天皇御巡幸の際、当寺は12日と24日
の両日御行在所となり、聖人の御名号と御詠歌を天 覧。
◇◆ 鐘楼と共同納骨墓 ◆◇
昭和45年(1970)4月、河端巌氏の寄進により、梵鐘(口径3尺5寸
400貫)の梵鐘を再鋳 し、門信徒 一同の寄進により鐘楼を建立しました。
浄福寺墓地内の共同納骨墓です。
◇◆ 新設した納骨墓 ◆◇
納骨堂とお墓を融合させた永代供養付きの新しいお墓です。