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越後上越柿崎区 浄土真宗本願寺派 扇谷山浄福寺です。
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◇◆ 浄土真宗とは ◆◇
浄土真宗の教章
親鸞 聖人の生涯
本願寺の歴史
浄土真宗の教章(私の歩む道)
・宗 名 浄土真宗
・宗 祖 親鸞聖人
(ご開山) ご誕生:1173年5月21日(承安3年4月1日)
ご往生:1263年1月16日(弘長2年11月28日)
・宗 派 浄土真宗本願寺派
・本 山 龍谷山 本願寺(西本願寺)
・本 尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
・聖 典
・釈迦如来が説かれた浄土三部経
『仏説無量寿経』
『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』
・宗祖親鸞聖人が著述された主な聖教
『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
・中興の祖蓮如上人のお手紙
『ご文章』
・教 義
阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が
尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
・生 活
親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねに
わが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報
謝の生活を送る。
・宗 門
この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に
阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。
それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。
親鸞上人のご生涯
平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、
親鸞聖人
は 京都の日野の里で誕生された。
父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。
親鸞聖人
は 養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得 度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。
ついで比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん) で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
しかし建仁(けんにん)元年(1201)
親鸞聖人
29歳のと き、叡山では悟りに至る道を見出す ことができなかったことから、ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためで あった。
95日目の暁、
親鸞聖人
は太子の本地である救世観音 (くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうに ん)の草庵を訪ねられた。
やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔 しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。
法然聖人の弟子となられてから、さらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた
親 鸞聖人
は、法然聖人の 主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改め られた。
そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元 (じょうげん)元年(1207) 専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。
法然聖人や
親鸞聖人
などの師弟が罪科に処せられ、
親 鸞聖人
は越後(えちご新潟県)に流罪。
これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非 僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもう けられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。
建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち 茨城県)の小島(おじま) や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。
元仁(げんにん)元年 (1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
嘉禎(かてい)元年(1235)、
親鸞聖人
63歳のころ、関 東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。
『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。
京都で は晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え られたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、
親鸞聖人
は 三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。
90歳であった。
(本願寺出版社発行「本願寺グラフ」より)
本願寺の歴史
本願寺(ほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の本山で、その所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル) する位置から、西本願寺ともいわれている。
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人 (れんにょしょうにん)によって民衆の間 に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっている。
もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展した。
親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大 谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。
しか し、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳(いと く)を慕う東国(とうごく)の門弟(もんてい)達は寂莫(せきばく)の感を深めた。
そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の 西、吉水(よしみず)の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移した。
これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)である。
この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留 守職(るすしき)につき、以後覚信尼さま の子孫が門弟の了承を得て就任することになった。
大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が 第3代に就任した。
覚如上人は三代伝持 (さんだいでんじ)の血脈(けちみゃく)を明らかにして、本願寺を中心に門弟の集結を図った。
三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然 聖人から親鸞聖人へ、そして聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人はその如信上人から教えを相伝(そうで ん)したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明 らかにしたものである。
本願寺の名前は、元亨(げんこう)元年(1321)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如 (ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像 の横に阿弥陀仏像を堂内に安置した。
これを御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)の両堂に別置するのは、第7代の存如(ぞん にょ)上人のときである。
5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられた。
室町時代の中頃に出られた第8代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯 (ほうとう)を父の存如上人から継承す ると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座(ひらざ)で仏法を談合され、聖人の教えをだれ にでも分かるようにやさしく説かれた。
また本尊(ほんぞん)を統一したり、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な伝道を展開され た ので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆(こうりゅう)をみることになった。
しかし上人の教 化(きょうけ)は比叡山(ひえいざん)を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒(しゅと)によって破却 (はきゃく)された。
難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぼうしゃ)に安 置して、文明3年 (1471)に越前(福井県)吉崎(よしざき)に赴かれた。
吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈(しょう しんげ)・和讃(わさん)」を開版(かいばん)し、朝夕のお勤めに制定された。
上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装し て一揆(いっき)を起こすに至った。
文 明7年、上人は争いを鎮(しず)めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口(でぐち)を中心に近畿を教化。
文明10年(1478)には 京都山科(やましな)に赴き本願寺の造営に着手、12年に念願の御影堂の再建を果たされ、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられた。
上人の 教化によって、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われたが、明応8年(1499)85歳で山科本願寺にて往生 された。
この後、山科本願寺は次第に発展したが、天文(てんぶん)元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒に よって焼き払われた。
そこで蓮如上人が 創建された大坂石山御坊(いしやまごぼう)に寺基(じき)を移し、両堂など寺内町を整備して発展の一途をたどった。
しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害と なったので、ついに元亀元年 (1570)両者の間に戦端が開かれた。
本願寺は、雑賀衆(さいかしゅう)をはじめとする門徒衆(もんとしゅう)とともに以来11年にわ たる、いわゆる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として天正(てんしょう)8年(1580)信長と和 議を 結んだ。
顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森(さぎのもり)に移られ、 さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉 寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移られた。
天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、 顕如上人は六条堀川の現在地を選び、こ こに寺基を移すことに決められた。
阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄(ぶんろく)元年(1592)、上人は積年の疲労で倒れら れ、 50歳で往生された。
長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆ ずりじょう)があっ たので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。
これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と、信長と の徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。
その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長(けいちょう)7年 (1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立した。
これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分 立したのである。
これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被 害を免れた。
翌年に御影堂の落成をみた ものの、元和(げんな)3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失した。
翌年阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永(かんえ い)13年(1636)に御影堂が再建された。
このころ対面所などの書院や飛雲閣(ひうんかく)、唐門(からもん)が整備された。
ところ が元和4年に建立された阿弥陀堂は仮御堂であったので、宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本 願寺の偉容が整備されたのである。
「本願寺グラフ」(本願寺出版社)より抜粋